カテゴリ
以前の記事
2008年 12月
2008年 11月 2008年 09月 2008年 08月 2008年 07月 2008年 06月 2008年 05月 2008年 04月 2008年 03月 2008年 02月 2008年 01月 2007年 12月 2007年 11月 2007年 10月 2007年 09月 2007年 08月 2007年 07月 2007年 06月 2007年 05月 2007年 04月 2007年 03月 2007年 02月 2007年 01月 2006年 12月 2006年 11月 2006年 10月 2006年 09月 2006年 08月 2006年 07月 2006年 06月 2006年 05月 2006年 04月 2006年 03月 2006年 02月 2006年 01月 2005年 12月 2005年 11月 2005年 10月 2005年 09月 お気に入りブログ
最新のコメント
メモ帳
最新のトラックバック
ライフログ
検索
おすすめキーワード(PR)
ファン
|
出勤後、すぐの休日。なんだか変な感じで体がなじめなかったが、朝も早く起きたので、普段は見れないとくダネ!でも見てみようと思った。その中で、ある女優の話題が気になった。 それは、その女優が結婚するということではなく、笠井アナが、彼女の印象について語った内容だった。 笠井アナいわく、彼女は、自分が誰かに何かを決めつけられたりするのが嫌いということだった。たとえば、「○○さんは、一見強そうに見えるけれど、実は弱いところを持ち合わせているよね。そういうところは、普段はみせないよね。」といったことをいわれるのが、いやだというのだ。自分は自由人でありたいと。 最終的には、結婚相手が年上だということと、笠井アナや軽部アナが、インタビューアーとして上手なほうであったこと。(年を重ねた男性であるため)というのを理由にして、その女優が大人であり、20代の男性とはつりあわないといった話をしていた。 「上善水の如し」といった老子の言葉がある。この意味は、その名の通り、「人間として最も理想的な生き方は、水のような生き方である。」といったものだ。最も理想的な生き方というのは、ちょっと抽象的であるが、水のように柔軟性に富んだ生き方ができるといった風に解釈すればいい。 これは、決して意図的に自分の姿・形を変えるのではない。水を見ればわかると思うが、水は、その姿を自由に・かつ自然に変える。まさに自然体そのものだ。それは、能動的というよりは、受動的と捉えた方が正しいと思われる。 ビジネス書界で著名なdさんは、「一流のブランド人は、自分がどう見られているかを常にコントロールできる。そして、そのブランドは、自分で作ろうとするものではなく、周囲によって作られるものである。」と言っている。つまり、一流のブランド人とは、能動的に自分のブランドを作ろうとするのではなく、受動的にブランドを作っているように見える。客観的に見れば、水のように見えるのではないか。 本当の自由人というのは、相手にどう思われようが、決して相手の言動を訂正しようとはしないはずだ。むしろ、大衆に思われるままのほうが、自由であるといえる。自由であれば、相手に自由にしてほしいということを望まぬはずだ。つまり、水のように自由であるならば、何にも束縛を感じないのではなかろうか。 自分をわかってほしい。と、相手に何かを求め、自分の意向にそぐわないものは拒否してしまうのは、相手を限定しているために、自由人とは言い難いと思う。 人格的に優れている人の度量の広さを見ると、まさに自由人といった感じがする。そういう人は、周囲に決して反感をもたれるようなことはしない。 読書から学んだことを、すぐに実践することこそ、何よりの体験である。たとえば、「働き初めてまもない新人だから、トライ&エラーの繰り返しで学んでいくべきだ」といった考えは、私はナンセンスだと考えている。
仕事を始めたからには、新人もベテランもない。新人は、当然ながらベテランに比べて経験が少ないため、ベテラン社員に対抗するためには、ベテラン社員以上に学ばなくてはならない。そのとってもよい方法が、読書である。 しかしながら、読書は読めば読むほどモノになるというものではない。自分でモノにしなくてはいけない。ただ単に読書好きだからといって、モノにできなければ単なる知識の取得に終わってしまう。 仕事に活かすための読書は、やはり今の業務に関連しているコンテンツについて書かれた本を読むことがベストだ。そうすれば、自分の中のその本に対す需要度のレベルが高いため、比較的短期間で知識を吸収できるし、すぐに仕事に応用してみようという気持ちになる。 「読書をやめてしまえ!」と、土井英司さんは、おっしゃる。それは、本を読んでいる最中に、すてきなアイデアが浮かんだら、その時点で読書をやめて、アイデアを書き留めたり、実践したほうがいいということだ。 やはり、ビジネス書の権威である土井さんも、読書メモをとることや、自分のアイデアを書きとめることは、大変重要と認識されているようだ。 「読書は1冊のノートにまとめなさい」(奥野宣之著/Nanaブックス)には、モノにする読書術が紹介されている。①自分の読書需要を喚起する方法②需要を満たす本の探し方③メモの取り方④メモのデータ管理など、読書術のみならず、読書を自分の血となり肉とする実践法が、紹介されている。 ぜひ、一読してみてください。 「読書は1冊のノートにまとめなさい」 最近読んだ本で、強く印象に残っているものがある。「情報は1冊のノートにまとめなさい」(奥野宣之著/Nanaブックス)、「読書は1冊のノートにまとめなさい」(同上)、「仕事が速くなるプロの整理術」(吉越浩一郎著/日経BP)。
いずれも整理術の本で、特に印象に残っているのが、あらゆる情報はできる限り一元化したほうがいいということだ。なぜ、一元化がよいのか? たとえば、仕事上のあらゆる情報を1冊のノートにまとめておけば、必ずその中から目的の情報を見つけることができるからである。 もし、あなたがとても几帳面な人で、ノートを用途ごとに使い分けていたとするならば、あらゆる場面で必ずすべてのノートを携帯する必要が生じてくるだろう。なぜなら、たとえあなたが出席するのが、企画のミーティングだったとしても、販促の話から制作、さらにいえば、ウェブの話になる可能性があるからだ。 うまく分類しようとすると、あとで必ず無理が生じる。これは、私自身が仕事を行ううえで体験したことなので、「情報は1冊のノートのまとめなさい」という本は、私を分類から生ずる地獄から救ってくれた本である。 今では、仕事からプライベートまで、ありとあらゆる場合にメモをとるときに、A6ノート1冊を使用している。情報を一元化することによって、仕事の正確さが増しただけでなく、スーツのポケットに入るサイズなので、どんなときでも楽にメモをとれるようになった。 仕事上でもっと確実に使うためには、メモをとるポイントをよく考えられるようになることだと思う。 たとえば、会議の場でメモをとるのは当たり前だが、電話でのやり取りや細かい決裁事項、自分に対する依頼、自分が部下に発した依頼なども確実に把握しておかなければいけない。従って、一日の中で起きた決裁事項や報告・連絡・相談も、よくよくメモをしたほうが賢明だ。 そうすれば、このメモ帳を見るだけで、明日の業務スケジュールが楽に立てられる。 他の本も、次回の記事以降でじっくり紹介する予定です。 大河ドラマ篤姫も、今日で最終回を迎えた。
最後に篤姫が亡くなるのだが、あえてかつての側近たちが彼女の死を嘆く様子が描かれていなかった。もしや、彼女がなくなる頃には、より多くの親しい間柄のものが、死別していたのかもしれない。 一方で、小松帯刀が亡くなったときの描写は、妻にも側室にも悲しまれたものであった。遠く東京にても、篤姫が、彼の死をとても悲しんだ。 人は、いつかは死ぬ。小松の死を見て、自分が亡くなるときには、どれだけの人が、自分のことを思ってくれるだろうか? と考えた。別段、そのために生きるわけではないが、小松のように高い志を常に持ち、その志を達成していける人間になりたいと強く感じた。 本気で生きていれば、きっと誰かが見ていてくれる。人に慕われるような強さと優しさを身につけていれば、必ず自分を見つめてくれる人がいると思う。 人は、あえて出会いを求めるべきものではなく、自らの生き方によって、新たな出会いが生まれるのではないかと思う。自分を磨くことにより、自分だけのオリジナルな強さと優しさを持つ。それにより、それに応じた人が必ず自分のもとへとやってくるのではないかと考えている。 NHK大河ドラマの篤姫は、9月くらいから見始めたが、彼女の生き方もまさに自らを磨き上げることで、多くの魅力的な人との出会いがあり、そして、魅力的な人生を送れたのではないかと思う。 ほとんどテレビを見ない私が、絶対に欠かさず見ている番組がある。 「陽炎の辻2」だ。土曜日の夜なので、外に出ている場合もあるが、その時は、録画予約をする。だから、出先の場合は、家に戻るのがものすごく楽しみで仕方がないくらいだ。 タイトルから気づいた人もいると思うが、これはシリーズものになっていて、「陽炎の辻」が、昨年秋から放送されていた。この続編を、今年の秋から放送している。実は、この番組に初めて気づいたのが、昨年、第二話が放送されてからであった。それからというもの、この番組のとりこになってしまい、今日までずっと見続けている。 私が一番好きなのが、主人公である天才剣士「磐音」の生き様である。彼は、私が思うに理想の武士だ。世のため、人のために、常に命がけでどんな敵とでも戦う。さらに、とても温かく、謙虚であり、皆に愛される存在だ。 私も、磐音のようになりたい。といつも感じつつ、「陽炎の辻」を見入ってしまう。たとえば、今私が行っている仕事に照らし合わせて考えたりもする。私は、磐音のように、常に命をかけて物事に取り組んでいるか。プロ意識を持っているか。人に優しく、謙虚であるか。など。 彼の言葉で、特に気に入っている言葉がある。「勝負は時の運。決して逃げてはいけない。」という言葉だ。人間、いつ失敗するかはわからない。でも、失敗をおそれて逃げてはいけない。勝ち負けにこだわらず、常に自分の持っている最大の力を発揮して、ぶつかっていくようにと、肝に銘じて毎日を生きている。 また、磐音と、おこんという女性の描写も好きだ。ちなみに私は、おこんの大ファンでもある。このような女性がいたら、本気で結婚したいと思う。感じたことをそのまま言葉に出すくらいの強さがあり、感情移入してしまうところもあるが、まっすぐな生き方をしていて、とても家庭的だ。詳しくは、テレビをご覧になってほしい。 その「陽炎の辻2」も、あと2回の放送を残すのみになってしまった。非常に残念だが、「陽炎の辻」と同様に、きっとDVDの販売があるはず。絶対に購入しようと思う。 今、私の生き方は、磐音をモデルにしている。彼の生き方を皆が学べば、きっと今世界にはびこっている諸問題が解決できるのではないかとさえ思う。それだけ、この番組からは、江戸時代の温かさと共に、人として、いかに生きるかを学ぶことができる。 世の中には、人を上手く利用して、自分の思い通りの世界をつくろうと考えている人がいる。 たとえば、麻薬中毒者をうまく利用して、お金儲けをたくらむといった発想が生まれるような人は、利益至上主義の現実に呑まれ、人間としていかに生きるべきか、という根本的なところを忘れている。 たしかに、お金をたくさん持っていれば、ある程度自由な生活ができて、うれしいような気がする。でも、お金は人生を楽しく生きるための手段であり、お金それ自体が目的ではない。月並みの言葉であるが、それを自覚して生きている人は、どれほどいるだろうか? 実は、私たちは、目の前のことに追われ、じっくり味わいながら、自分の人生を満喫している人は、とても少ない。今日を振り返って、どんなことが楽しかっただろうか?小学生の頃の絵日記のように、1日の様子を描けるだろうか? 大人になるということは、じっくり味わえない人生に慣れてしまうことなのだろうか?私たちは、子ども達に、論理的に立派なことはいくらでもいうことができるが、自分自身が、本当に人生を味わっていなければ、子ども達の前で、あまり偉そうなことは言えないはずだ。 では、どうすればいいのか?人生を楽しめばいいのだ。自分が心から楽しいと思うことをやる。そして、楽しくなかったことでも、楽しいと思えるように、楽しみの幅を広げていくことで、今、この瞬間をじっくりと味わうことができる。 人生の根本的なところをよく、考えてみよう。どんなときも、楽しみに勝るものはない。個人的な欲望と楽しみとではわけが違う。楽しみの幅が広がってくると、何が一番楽しいかも、自然に変わってくる。その途中で、私たちは、人として確かな成長を遂げていくのではないかと思う。 「こんにちは。」 男は、正面にいる浴衣姿のおじいさんに声をかけた。 「まぁ、お久しぶりです。 あなたとは、最近、ばったりと会うことが少なくなっていましたね。いやあ、なんともうれしいですな。」 浴衣姿の老人は、ほっと胸をなでおろしたように、安堵の表情を浮かべた。 「ご主人が、出世なされたのではありますまいか?」 「いやいや、出世などではありませんよ。仕事は相変わらず係長止まりです。しかも、まだ学生の子どもが三人もおるのですよ。」 「ではまた、どうしてこんなにも長い間、あなたとばったり出くわすことがなくなってしまったのでしょうな。」 「実は、主が毎晩、賭け事にどっぷり浸かっておりましてな。もう、たまらんのですよ。」 「なるほど。そういうことでしたか。でも、よくもまぁ、そこまで勝ち続けられましたな。とはいっても、今、ここに私がいるということは、もう、負けてしまわれたということでしょうが・・・」 「わしにとっては、あなたと一緒のほうが、落ち着きますよ。わしと同じものが何人もおったら、もう息苦しくて・・・」 「ところで福沢さん、本当に私のことを覚えてらっしゃいますか?」 「もちろんですとも、野口さん。」 私たちは、他人の行為に対しては、簡単に批判をすることができる。 たとえば、同僚や後輩の姿を見て、どうしていつも、同じ仕事の失敗を繰り返しているのか? 前に失敗したことが、全く教訓になっていない・・・などというように。 他人を批判したい気持ちは、十分にわかる。私たち人間は、人より優位に立ちたいと願う生きものだからだ。でも、本当に人よりも優位な人間になりたい! 人から一目置かれるような人間になりたい! と望むのなら、人を批判する前に、自分の行為を省みるほうが効果的だ。 その理由は二つある。 一つは、自分を省みる習慣を持つことで、自分自身を律することができるようになるからだ。つまり、失敗を失敗として謙虚に受け入れ、その教訓を次に活かすことができるようになるのだ。その結果、自己の人間としての成長であったり、仕事のスキル向上が飛躍的に高まっていくことになる。 二つ目は、自分を省みる習慣を持つことで、他人を批判しなくなるからだ。他人の批判をすると、必ず自分に帰ってくる。つまり、どこかで自分が批判されたり、誰かとの人間関係が悪化したり、何か心のもやのようなものが、必ず顔を出し始める。他人を批判しなくなると、このような事態が起きることがなくなり、運気が向上し、人に慕われるようになっていく。 しかしながら、私たち人間とは、なかなか自分を省みるだけの習慣を持つことができないようだということを、この本は教えてくれる。人間が、自分を省みることができるようになるためには、やはり、頭ではわかっている教訓を、自分ができずに失敗してしまうくらいの屈辱気な経験をしないと、本当の教訓にはできないのであろう。 失敗体験こそ、教訓の源ではないだろうか。 『ショートショートの広場 阿刀田 高』(講談社文庫)常盤奈津子 著「教訓」 私には、人を思い通りに動かす力がある。 ある日、私はいつもと同じように、オフィスの椅子に腰をかけ、パソコン画面に向かっていた。 そこで、一人の女性社員と目が合った。入社1年目と経験が浅いながらも、上司の信頼が厚い。そして、彼女の持つ魅力である、鋭い眼光を、私は、妙に気に入ってしまった。 彼女に決めた。 別に、彼女に悪いことをさせようというわけではない。ただ、ちょっと仕事を依頼しようと思うのだ。 今、優先順位がつけられないほど、バタバタと仕事に追われている状況だ。事務処理的な仕事から、創造的な仕事、そして、取り引き先とのやりとりなど、膨大である。彼女には、事務処理的な仕事をやってもらおう。 そう思って目を閉じた。目の前に、彼女が現れてきた。彼女が、私のところに来て、「よろしかったら、お手伝いしましょうか? 」とたずねてくる。 よし、うまくいった。と思った。しかし、次の瞬間、目の前に、私自身がいた。なぜか、私が勝手に動いている。そして、私の前には、私の上司がいた。「よろしかったら、お手伝いしましょうか? 」 「いい心がけだね。 無理はしないようにね。じゃあ、これを明日の15時までよろしく。」 便利な世の中に生きている私たちは、とても幸せだ。もしかしたら、江戸時代の人たちも同じように感じていたかもしれない。便利さとは、相対的なものだからだ。 旧石器時代には、素手から武器を使うようになって、猟をしていた。当時の人々にとっては、武器があることだけでも、とても便利だったに違いない。 しかしながら、便利さというのは、相対的観点だけでは見られない点がある。あまりに便利になりすぎるとどんなことが起こってくるだろうか? やはり、私たちはもっと便利なものを求めるに違いない。そして、その便利さゆえに、心が荒んでいるのが現代人だ。皆が自分の家を持ち、外からは断固として隔離されている自分だけの空間。皆がそれを望む。自分だけの家、自分だけの車、自分だけの・・・・と増えていく。 便利になるにつれ、自分だけ・・・という欲が膨らんでいき、自分だけの利益になればいいという考えがはびこってくる。 それに伴い、法律が整備されてくるだろう。と思ったら、大間違いだ。そんな人のために作られた法律なんぞ、所詮、自分だけが助かればいいという考えを蔓延させ、より増幅させるもの以外の何物でもない。 ”超PL法”というタイトルは、まさに、現代人の気持ちに応えるような法律だと思う。学校や仕事でさえも、自分を守ろうとする人々。自分は確実に伝えたから、それは私の責任ではありません・・・といった風潮。責任の所在を明らかにすることは、仕事をする上で大切なことかもしれないが、人間としてそのような生き方をするのはどうだろう? ずいぶんと機械的で、まったく温かさを感じられなくはないだろうか? 自分だけを守ろうとすると、やがて大きなものを失ってしまう。 子どもがゴルフボールを飲んで、死亡してしまった。そして、裁判を起こして、勝訴。結果的に、敗訴になった会社はつぶれてしまった。・・・ 昼食を食べるまで、分厚い本が何冊も出てきて、なかなか食べられない。友人宅にたどり着くが、それでも分厚い本が出てきた。・・・・ 私たちは、このような世界を創りだろうとしている。そういうことに気づいてほしい。といった思いで書いてあるのかもしれません。
|